宮崎兄弟資料館の写真
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宮崎兄弟資料館の紹介
宮崎兄弟資料館
宮崎兄弟資料館は、揺れ動いてやまぬ近代日本の在り方に全身で立ち向かった宮崎兄弟の生の軌跡を振り返るとともに、中国革命と孫文に関わる様々な資料にふれることができる、日中の平和と友好のために、また新しいアジアと日本の交流の発信地である。
宮崎兄弟の生家
1897(明治30年)、まだ草深い荒尾村を亡命客の孫文が訪れた。
孫文が滔天と綴った筆談の書や、孫文が親しんだ庭にある梅の古木、泉水、味噌蔵、それに滔天がシャム(現タイ)から持ち帰った菩提樹等がその頃の様子を偲ばせる。
宮崎兄弟の生家は、近代日中交流史の原点でもある。
宮崎兄弟資料館基本情報
営業時間 |
9:30 〜 17:00(ただし、資料館への入館は16:30まで) |
定休日 |
月 (その日が祝日にあたるときはその翌日) 祝日の翌日(ただし、その日が日曜日にあたるときを除く) 12月29日〜1月3日まで |
予算 |
入館料 小・中学生 100円 一般(高校生以上) 210円 |
お知らせ
店舗特徴
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宮崎兄弟の生家(熊本県指定史跡)
宮崎家の祖は、筑前三笠郡宮崎村の住人で、後肥前国佐嘉に移り鍋島候に仕えた。
正徳四年(1647)正之が荒尾村に分家移住し、荒尾宮崎の祖となる。
子孫は代々細川藩に仕えて、一領一疋の郷士の待遇をうけた。
九代長兵衛正賢の時ゆれ動く明治維新の中で、宮崎兄弟の行動は異彩を放った。
長兄八郎は若くして熊本自由民権運動の先達となり、文筆と行動にたけた民権党を率いて西南の役にたおれた。
民蔵は土地の天賦均亨論を唱え、百姓の使者と称して外国をまわった。
土地復権同志会の設立後、土地の再配分運動に奔走したが、失敗し孫文の中国革命に参画することとなる。
弥蔵と滔天は人類平和の理想国家を中国に建設するため行動を起こしたが、弥蔵は病のため横浜でたおれた。
滔天は孫文を助け清朝転覆に成功し、中華民国の建国をみたが、真の平和の日の訪れを見ずに大正十一年十二月六日波乱に満ちた五十二年の生涯を終えた。
孫文は明治三十年の秋に宮崎家に亡命し、民蔵の土地問題に対する考えに深い感銘を受けた。
大正二年三月十九日に中国建国を終えて宮崎家の人々への感謝のため、ふたたび宮崎家を訪れた。
日中両国の善隣友好とアジアの平和発展を考える場合中国民衆のために生涯を捧げた宮崎兄弟の功は不滅であると言わねばならない。 |
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孫文(1866〜1925)
孫文は広東省香山県の農家に生まれ、12歳で出稼ぎにでて成功者となった長兄を頼ってハワイに渡り、資本主義文明の優位性を知った。
5年後に帰国、広東・香港で医学校に学ぶ。
1894年革命団体興中会を結成、1895年広東で蜂起、失敗して亡命。
2年後宮崎滔天ら日本の志士との交流を深め、1905年東京で滔天と共に中国同盟会を結成、指導理念として三民主義を唱えた。
その影響の下に1911年辛亥革命勃発、清朝は倒れアジアで最初の共和国である中華民国が誕生した。
孫文は帰国して臨時大統領に選ばれた。
なお残る封建的軍閥勢力と戦いながら、彼の三民主義は国共合作と共に反帝国主義の旗印を明らかにし、1925年以後の国民革命運動に思想的な基礎を与えた。
滔天・民蔵との友情は最後まで続き、『革命におこたらざる者は宮崎兄弟なり』の語を残している。 |